スナドリネコさんから学ぶ、人間のこと

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ひどい夢をみた。

いま巷では「サイコパス」という言葉がよく使われるようになったが、そんな言葉が本当に似合う、おぞましい悪夢をみた。2週間くらいまえのことだ。

あまりにも衝撃的な内容なので、ここに書くのは躊躇いがあるが、要約すると、猟奇的な主人公(おそらく自分)が見ず知らずの女性をストーキングし、最終的にはひどく残酷な方法でその人を傷めつけ服従させるようなストーリーで、第三者視点で観てる映画のような夢だった。

ものすごく怖かった。思い出すだけでバッドに入るそうになるし、ディテールに関しては、今後の人間関係に影響を及ぼすのではないかと思うくらいの内容だから、親しい人にも話していない。とにかく「サイコパス」な夢だった。

「悪夢」と呼ばれる類の夢は、日ごろなんとなく不安に感じている事柄だったり、恐怖を感じた実体験がベースになることが多いように思われる。その点、今回の夢が恐ろしいのは、内容のおぞましさだけではない。思い当たる節が一切無いということ。つまり、その夢をみた当日、或いはそれ以前に、その悪夢に繋がるような経験を、全くした覚えがないのである。ヴァイオレンスな映画を見た後なら理解できるが、そのようなことは一切ないのだ。

しばらく俺はうろたえた。

思春期の一時期に、人並みにグロテスクな事へ興味を持ったことはあるが、それから俺はべつにサイコな物語は好きじゃないし、性癖だって「巨乳 素人」以外の検索ワードに興味がない。ゴキブリもちゃんと嫌いだ。

だが、俺がその夢を見てしまったのは認めざるを得ない事実だ。自分が、日ごろ微塵も考えないような気味の悪い物語を見てしまった。それがどういうことか。結局、微塵も考えていないなんてのは嘘だということだ。俺はしっかり、そういう 良くないことを、無意識のうちに避けているだけで、何が秩序であり、如何に自分が秩序正しいかを自認する為に、さもまともぶっているだけに過ぎないのだ。

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「本当の自分」がなんであるかを考えることは、それ自体に意味があるかはわからないが、人はおおよそ、本当の自分を覆うように生きているように思える。「必要以上に優しい人」を例にとるとわかり易い。異常とも思える気遣いで、「そんな事しなくてもいいのに」と思えるくらいに世話を焼く人。経験則なのでこれは一概に言えたことではないが、彼らがそうした行動を執るのは、優しくない、本当の自分の性を否定することに始まっていると考えられる。いわゆるDV男の行動もこれと同様の性質である。

 

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無学なので時事ネタをああだこうだいうのは好ましくないと思うが、例のナイナイ岡村風俗発言には、人はそうした宜しくない事を考えるものである、という事をより認識させられた。加えて、そういう人のおぞましい部分を、さも異常で、人間とはそういう事を一切考えない潔白で性善な生き物であるとでも言ってるような主張に対し、世間の一部はその程度の浅はかさでモノを言うのだということも感じた。

 

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自分を知らなすぎるのだ。人は、おぞましい事が何であるかを知らなければ、それを避けることができない。それが何であるかをよく知っているから、秩序正しくっぽく振る舞えるだけのことである。それを知らずして、人は人の何を知っているというのだろう。

 

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  画像は総て いがらしみきお「ぼのコレ」2巻より引用(ごめんなさい)

今回の悪夢を見た後、俺はぼのぼののある話を思い出した。

ぼのは、散歩しながら、倒れているアライグマくんを踏みつける。ただそれだけの夢を見て、夢って何でへんなのかについて考え、島の人々に聞いて回る話だ。

スナドリネコさんはなんでも知っている。きっと、作者のいがらしみきおが何でも知っているのだ。でも、今の社会は、何にも知らない人々の声の方が、強い力を持っているのかもしれない。

 

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                     唯川恵「あなたが欲しい」より引用

 

 

争いの原因「同一視」、「こころとは何か、努力とは何か」

 

俺は本当に何でもない23歳の男子で、この記事を広く見てもらうためのコネクションを何も持ち合わせていないが、だからこそ主張したい、或いは主張するべきではないかと考えていることがある。著名で博学の人たちは、時に何を言っているのか、常人には理解し難い。常人が一つの物事を考えるにあたって平均ステップ3くらいまで考えるとして、頭のいい人はその遥か先のステップまで物事を考えているから、ステップ3止まりの常人に6とか7の話をしても「何かすごいけど難しいね」で終わってしまうし、何より識者たちは適切な言葉選びの末に到達した、よくわからない難しい言葉を好む。だから、場合によっては理解できないストレスでアンチが生じ、そんなノイズを避けるために識者たちは有益な知識をよりクローズドなコミュニティでしか語らなくなってしまうことになる。これは社会全体がより善く生きていくために好ましいとは言えない。

だから今から書きたいことは、有識の人々から見たら鼻くそ程度の話かも知れないが、それにしても、あまりにも世の中の人たちが ちゃんと 認識してない事実があると感じているので、何でもない者として、その想いを以下に記す。

 

この記事で最も伝えたいこと:

怒り、争いの原因は「同一視、多様性の無視」

 

何人も、産まれながら持つ能力は平等ではない。加えて、生きていく中で経験することも人それぞれだし、それぞれの経験によって感じることもまた多様である。これは誰が見ても明らかなことだ。電車の中で無秩序に奇声を上げる人を見て、我々はそれを「何らかの障害を持っているんだ」と認識することもできる。

なのに、我々は、予定通りに起床出来ない人を「怠惰な人」で済ましたり、いつも平均点以下しか取れない同級生を「バカ」呼ばわりしたりする。或いは、鬱で休養を取る若者を、「俺たちが若い時は・・・」なんて言ったりすることもしばしばだ。要は、「大体の人ができる事を出来ない者は、バカで怠慢である」と、多くの人が考えているのである。

実際、バカかも知れない。というより、そうした対象をバカとカテゴライズすることは人間にとって非常に容易な事である。今回取り上げたいのは、そうした人々をかんたんに「バカ」とカテゴライズするのはやめて、人間にはそれぞれ得意・不得意がある事をもっと深く認識すれば、他者に対する苛立ちは減少し、さらに深く議論する事によってお互いを理解して、争いを減らそう、そして平和に善く生きよう、という、いわば提案である。

 

・世の中に本当に怠惰な人なんていないし、本当に苦痛な事を自主的に継続することは出来ない

 

昨年末、旧帝の院を卒業し、某超有名企業へ研究職として就職した先輩と、5.6年ぶりに会うことになった。夜学を5年かけて卒業した(かもまだわからない)末に、肉体労働に従事している俺とは、社会的に見れば雲泥の差である。そもそもそのような方向を目指していないのも一つあるが、それにしても、彼のその功績は容易にできることではなく、称え、尊敬するべき対象である。

しかし俺にはわからなかった。なぜ、そこまで頑張れるのか。俺が超有名企業に就職することを望んでないにしろ、別のステージで同じだけ勤勉に努力したことは何もない。色んなことを経験し、思索しているにも関わらず、未だ自分が快く生きられる道へたどり着けていない。

俺はこのような努力の差がなぜ生じるのかを、彼との会話の中で明らかにしようと試みた。その仮説にまず、旧帝という環境に依る、母集団の能力の中央値がもたらしたものではないかという説を建てたが、これは的外れであった。彼の回答は、曰く「おこがましいと思われるかも知れないけど、自分ではそこまで努力したつもりはない」というものであった。加えて彼は俺のような人間に喝を入れることもなく、「自分の頑張れることで飯食って生活できれば、充分だと思う」と続けた。

彼は自身の経歴を、成功者にありがちな過剰な内的帰属をすることなく、冷静に自己と他者の違いを理解していた。よく考えてみたら確かにそうだ。俺だって、学費を稼ぐために週7で日夜働き続けていたこれまでを、絶望的な苦痛の中で猛烈に努力していたとは全く思わない。何人も、快不快は人それぞれであり、本当に苦痛な事を自主的に継続することは、到底、出来ないのである。そんな事を理解した人々は、これまで通り、他者を「バカ」とカテゴライズするのみで済ますだろうか?

 

 

・こころとは、「言語を認識する部分」と「言語によるコミュニケーションができないその他の部分」とに介在するものである

 

ある日、10年の付き合いになる友人「あべ君」と、共同で作業をしていた。その作業とは、何のデータもない新規のDAWに、一つづつ音を入れては交代し、曲を作ろうというものだった。あべはこの作業を、俺のターンとは比べものにならない速さでこなし、最終的にほぼ彼自身で曲を完成させていった。作業に滞りを見せる俺に、彼は「何に悩んでるのかわからない」と言った。

確かに何故だ。俺もあべも、「一緒に曲を作ろう」という意思やそれに向けた意気込みも同様にあるのに、何故俺には苦痛が伴うのか。勿論それには知識量やセンスも関係しているが、この出来事が「こころとは何であるのか」を考えるきっかけになった。

俺はこんな記事を書きながらも、何かと「根性論」で物事を捉え、9時出勤の癖に「明日、仕事だから」と早めに飲みを切り上げる友人たちを「飲めない理由を探すな、飲める理由を探せ」といった具合にエゴを押し付けていた。これはちょっとした冗談だが、それにしても、自分の気合いさえあれば、苦痛な事でさえも何でもできるとずっと誤認していたのである。

しかし実際はどうだ、俺はあべと一緒に曲を作りたいという意思は絶対にあるのに、DAWに向かって椅子にじっと座って作業することが苦痛で仕方がない。それが何でかもわからない。そう、わからないのである。なぜ俺の脳みそが苦痛で、あべが苦痛じゃない事を、頭の中だけで言語で理解することは出来ないのである。わからないことは、こわい。だから人は、「言語によるコミュニケーションが出来ない部分」のエラーを言葉で明らかにしようとして、故に「怠惰」などといった表現が生まれる。それこそが真実であると考えたことにより、「こころが弱い」とか、「メンタルが弱い」などという表現が産まれたのである。

 

・「こころ」は筋肉じゃない

 

ここまでを理解すれば、こころが一つの場所に留まっている物体ではないことが判るはずだ。だが実際の世の中では、「メンタルを鍛える」だとか、「あいつはこころが弱い」などといった表現はかなり使われている。或いは「意志が弱い」なんて表現もある。何人も、より善く生きていきたいのは当たり前だし、それに向けて努力したい気持ちはあるのに、それが出来る人と、そうでない人がいる。世の中の多くの人は、こころが何であるのかを理解していないから、出来ない人は できる人の「お前はこころが弱い」をかんたんに受け入れてしまう。だから、こころを鍛えようとする。しかしこころは筋肉じゃない。そもそも人が作り出した概念であり、物理的なものじゃない。筋肉はいじめればいじめるほど強くなれるが、こころはそういった稲みたいなものではないから、いじめればいじめるほど、こころは脆く壊れていってしまうのである。我々は能力という歩幅の違いを理解し、自分の頑張れるステージでより善く生きていくべきであり、その追求こそが「努力」である。

 

 

結論:「争いの原因、同一視」

 

最後に、繰り返しになるが、何人も、能力も経験も一致することない、それぞれオリジナルな存在である。

我々は、自分には理解できないアクションを他者が起こした際、苛立ちが生じ、時に人は争う。しかしこれは、多様性の無視に過ぎず、自分と他者を同一視することで生じる事象に過ぎない。人は、自分だけでは理解できない他者の意思・行動を、正しい言葉選びと冷静な議論によって、「自分にとってイレギュラー」な他者の言動を理解できる。これは罪人を「許す」事とは違う。許す事と、理解する事は、根本的に違うものなのだ。

 

少し話は変わるが、いま世界は大麻解放へ動き出し、様々な議論が行われている。

大麻使用は幸福追求という観点から見て、必要な人には必要なものであると俺は認識している。この議論に現れるアンチは、そうした「多様性」を未だ理解していないに過ぎない。それよりも問題なのは、こうしたアンチを無知だとかバカだと煽る支持者側である。何人も、経験も人それぞれで、感じることも人それぞれなのだ。幸福追求を求めているはずの支持者が、この事を理解せず、アンチを「バカ」とカテゴライズで済ます事は、それこそ支持者側が散々嘆いている思考停止に過ぎない。だから大麻議論以前に、俺たちは、何人もそれぞれオリジナルな存在である事を理解し、冷静な言葉選びと議論で他者を理解していくべきなのである。その先にこそ、醜い争いのない、今より少しでも平穏な世界が待っているはずだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が大麻をやらない理由

 
 
音楽をやっていると、大麻をはじめ違法薬物などに手を出している人は多くみる。
友人関係でも、かつてクリーンだった人がそうしたものに手を出して立派にヤク中になったひとも何人かはいて、彼らはかつての人間関係から遠ざけられる対象になった。無論 世間の多くの人も彼らを「バカな奴らだ」と感じることだろう。
 
しかし本当の意味でよく考えてみて欲しい。
俺たちは、本当に彼らを批判できるほど、違法ドラッグと呼ばれるものについての知識を持ち、なぜそれが禁止されているのか、またはなぜ手を出してしまったのか、ちゃんと考えているだろうか。「大麻はいけないもの」という認識は、日本人にとっては自明の理であり、これを疑うことすらないが、もはやそうした死んだ思考を持ち続けることが、何年後かには悪と定義されかねないところまで時代は来ている。
この記事では、完全な主観による、なぜ彼らが所謂「ヤク中」になるのか、(この記事では焦点を絞り)大麻が本当にいけないモノなのかを考察し、またその上で、俺がなぜ大麻をやらないのかを、かなり簡単に書いていく。
 
 
1.なぜ彼らは「ヤク中」になるのか
 
・環境要因
 
友人関係に違法ドラッグを使用している者が居るかどうかは、その人の居る共同体によって、0か10以上かの差があると思われる。
これには趣味嗜好、家庭環境や学校などによる青年期の友人関係が関わってくる。
ゲートウェイドラッグとは本当で、(俺の周りで)違法ドラッグに手を染めてしまう者は100%、10代から喫煙をしている。
が、やるかやらないかに特に直接的に関係している環境的要因は、「居住地域」にあると俺は考えている。
10代の人間関係は、中学等、主に地元で形成される。この頃に飲酒・喫煙を覚える少年たちに共通するのは、夜間に外出が出来る家庭環境であることが多い。つまり親の管理が届きにくい状況の時間が、そうでないものと比べて長いのである。こうした青少年たちも、無論すべてが違法ドラッグに手を染めるとは限らない。これに大きく関わるのが、居住地域の違いである。
 
俺が10代の時間を過ごした横浜市青葉区では、治安の良さや東急に開発された宅地を好んで暮らしている世帯が多く、地元やその付近でドラッグのやり取りをする者は、私の知る限りでは居なかった。つまりは、この時期に例え興味があったとしても、ドラッグはあまりに遠い存在であるため、使用に至らないのである。つまるところ、この少年期に地元の紐帯でドラッグを使用する者が居れば、それが蔓延する可能性は大いにあり、近郊で言えば、相模原市・町田市などがそうであると考えられる。
 
・彼らの精神的共通点
 
この記事では、俺の直接知る限りのデータでしか論じることは出来ないが、彼らの性格には共通点が以下のようにある。
 
・仕事や学校を継続する事が難しい
・飲酒、喫煙、ギャンブル等への依存
・不安感や孤独感を感じやすい
 
考えてみれば当然のことではあるが、このような精神状態に陥りやすい傾向のある者は、そもそも心身が不健康・不完全な状態がベースにある。上に挙げたような特徴は、要するに脳が正常に働いておらず、またもっと具体的にいえば神経伝達物質が正常に分泌されていないのである。これは、所謂 発達障害の傾向であり、実際、依存症と発達障害には相関があることは事実である。

“人は、脳内報酬系が刺激される(ドーパミンが増加する)ことで、やる気や快感が生じ、集中力を持続することが可能となります。したがって、脳内報酬系の活性が低い傾向があるADHDの人は、刺激が少ないと、やる気や快感を感じることがなかなか出来ず、また、不注意から様々なミスを繰り返すことになります。

そのため、ADHDの人は無意識のうちに、行動し続けること(すなわち多動)や、何かに依存することで脳内報酬系の活性を高めようとしていると思われます。その何かが人によってはアルコールや薬物、ギャンブル、ゲーム、買い物などであり、それらを続けるうちにやめようと思ってもやめられない依存症という状態に陥ってしまうと考えられます。”

ここまでを理解した上で、俺たちは、彼らを一様に自分と完全に同じ人間だと、同じ脳みそをしていると捉え、その上で彼らをバカだと罵ることは、当然、出来るはずもないのである。
 
2.大麻は本当にいけないモノなのか
 
ここからは、この記事のテーマである「大麻をやらない理由」を記すため、違法ドラッグの種類を大麻に絞って書いていく。
世界各国で大麻解禁の動きがある中、日本ではこうした話題は表沙汰になりにくい。大麻覚せい剤などと同様に、「とにかくいけないモノ」と認知されている(させられている)から、まさかワイドショーで「私は良いと思います」なんていえないし、これは当然といえば当然のことである。しかし本当に、大麻はいけないものなのか?
“アルコールは、交通事故や家庭内暴力といった他者へのリスクが高いのですが、規制はそれほど強くありません。たばこは喫煙者への害の可能性はもちろん、受動喫煙や子どもの呼吸器への影響といった他者へのリスクもあります。他方、大麻はそれほどリスクはありません。これは私見ですが、大麻などの物質については、(国際的な規制対象を決める)1961年の麻薬単一条約の薬物リストを見直す必要があると思います。リスクと利益を理知的に評価すれば、その評価を使って規制する国にも役立ちます。現実を見ようと訴えている私たちGCDPの対応は非常に合理的だと思います。世界保健機関(WHO)はようやく昨年、大麻の医療効果を認め、大麻と関連物質について規制対象リストを見直すよう国連に勧告しました。”
 
正直言ってこんな引用をすることすら、俺にとっては必要にも思えないくらい、この事実は有名な話だ。はっきり言って大麻は超 大したことないのだ。
友人が高校生の頃オーストラリアに留学した際、現地の人間に「お前、タバコ吸うのか?」と驚かれたが、彼らは昼になると森へ大麻をキメに行ったという話も聞いたことがある。実際、そうした価値観の中で育てば、タバコを吸うことなど、何らメリットもない非生産的な行為であるようにも思えてくるだろう。
その他、大麻の経済効果や、死亡例の少なさは、少し調べればすぐに判るが、ここでは面倒で長くなるため割愛する。気になる人は調べてみて欲しい。
 
・解禁の兆しが見えない理由
 
莫大な経済効果も期待される大麻が解禁されない理由を、個人的な見解で考えていく。
いくつか思い当たるところがあって、「大麻が他の危険薬物への入り口になる」、「いけないモノという自明の理を壊すのが難しい」、「闇化」、「未成年者の健康被害の懸念」などが挙げられるが、正直これらは小さな理由で、最も大きな理由はアメリカが禁止だったから、又は敗戦にともなってGHQに禁止されたから」以外無いのではないかと考えている。
 
話は逸れるが、「世論」とはいったい何なのだろうか。
テレビやラジオでは、常に世論を気にした上での議論しか行われず、誰も本当のことを表すこともない。
哲学者のハンナ・アーレントが、誰もが極悪非道だと思っていたナチスアイヒマンのことを「平凡な人間」と評したことを、世間は批判したが、彼女の主張が間違いではなかった事をその後 世間は理解をした。それぐらい、大衆とか、世間とか、世論ってのは、浅はかで、思考停止したモノなのだ。もちろん人によって、物事をどれだけ深く考えられるかは個人差があることを俺は理解しているが、そうした浅はかな思考を悪と定義しないならば、他に何を悪と定義できるだろうか。
 
3.俺が大麻をやらない理由
 
ここまで見れば、俺が大麻の間接的リスクを提示しつつも、割合 肯定的な意見を持っていることは理解してもらえたと思う。
正直言って、早く合法になってもらいたいと思っている。
音楽をやってる身としては、キメた状態で、ただただ気持ちよく音楽に没入してみたい気持ちもあるからだ。
そんな考えを持ちつつも、俺が一度も大麻をはじめ違法ドラッグに手を出さない理由はいくつかあるが、その大きな理由の一つは、「違法だから」だ。
要は、捕まりたくないし、10代の頃にコソコソ喫煙していたあの感じを、今さら再現したくもないのである。その様がみっともないことぐらい想像がつくし、元々 職質を受けやすいタイプなので、俺にとって違法ドラッグはリスクの方が大きいのだ。
そして何よりも、大麻をはじめとした違法ドラッグをキメた友人たちに、何か凄い功績を残した者が一人も居ないし、むしろ怠惰な癖にデカいことばかり言う奴しかいないからだ。
ロックやヒップホップ、或いはジャズにしても、偉大な功績を残したアーティストたちの多くも薬物使用者であったが、それと自分を重ねてはいけない。偉大な者とそうでない者の違いが薬物にあるわけが無いことは、経験上、俺にはよくわかる。
 
 
しかし上述の通り、誰一人として同じ脳みそを持つ者は居ないし、ヤク中たちがツラい気持ちを持ちながら、自分の脳が正しく働いていないことにも気づけず、イリーガルの沼に沈んでいってしまうことは、思考停止した世論を動かす必要を感ぜざるを得ない。
 
我々は常に、当たり前だと思うことを自分なりに深く考え、自己のできる範囲で、よく生きるということを、考えなければならない。
 
 
 
 

 

土曜日の夜に、飲んだくれて山中を待ってる。

俺はいつのまにか引っ越して、地元は過去になった。

まだ学生として一年残っているが俺は屋根職人になった。

いままで自由に見えて息詰まっていた生活から解き放たれて、

やっと自分だけの人生を歩めている気がする。

ネットフリー

帰宅ラッシュの電車内、ふとpcから目を離し車内を見渡してみる。

前の列には立ち乗車大勢、俺の列に6人が座っていて、全員スマフォ。

ぎゅうぎゅうに揉まれつつも、みんな一生懸命スマフォ。

ケータイを手にしていない人、確認できて3人。

 

別にそれ自体は問題ないはずなんだ。

でも残念なことに、そうしていて楽しそうなやつはほとんどいない。

もうネットには、欲望の塊みたいな連中が簡単に大金儲けるためだけにつくられたゴミみてぇなコンテンツしかない。

それなのに、この車内にはそれをいじることによってしかそこに居られない、退屈を一生懸命凌ぐ外ない奴らしかいないらしい。

これはもう病気でしかない。ギャンブル依存症のそれと原理は何ら変わりない。

結局はケータイをいじることによってたまに得られる快感を脳が学習して、猿のようにケータイをいじるというスパイラルにハマっている、ただそれのみ。

だが俺だって他人事じゃない。

ストレスにしかならないsnsの投稿はもう遡れば5年も続けているし、消すに消せない。その瞬間を想像すればまるで恋人とさよならする時と同じ感情にさえ陥る。

幼稚園児の頃からエロ画像を検索していた俺は、インターネットに触れつづけてもう20年になる。ネットが嫌になることなんて数えきれないほどあったわけだが、現状のネットはそのなかでも、溢れるコンテンツに対して一種の呆れのようなものを感じている。

そしてそれを利用し続けるユーザーにも。

現実はスマフォの中にはないのに、もはや俺らにはインターネットが構築した世界が現実以上に重いものになっている。過剰なつながりが結局は大きな孤独感になることも、常に誰かと比べることでしか得られない優越感も、他人に認められなければ確認することのできない幸福感も。全部ネットが増長させている。

 

「お前が適応できないだけだ」と言われても構わない。

でも同じようにストレスを抱えているやつらは沢山いるはずだ。

俺が劣っているんだとしたらそれでいい。

この数日いらない接続を徐々に控えているが気分は良好だ。

ここには大事なことなんて何もないんだから。そうしてまた徐々に、うまく付き合っていければいいと思っている。

胸張れ誇り高き一般人

語ることや書くこともめっきり減った。

仕事が終わればそれなりの家事をし、ビール飲んで寝る毎日。

不満気な響きに聞こえてしまうが、そんな毎日にたいへん満足している、THE・一般人になった。
というより、今更で恥ずかしいけど深く一般人であることに気付かされた。

「音楽から離れて」、なんて立派にいえるほど真面目に音楽を勉強はしていなかったと思う。しかし音楽から離れて、正式に、やっと思春期が終わったような気がしてならない。

俺とほぼ同じタイミングで「音楽から離れた」友人曰わく、
「音楽をやっているときは常に何か悩んでいた。音楽以外のものを楽しいと思うことがなにか罪のように感じていた。彼女と晩飯を一緒に作って、食べて、わぁ、おいしいね、今はそれで満足。」

ちなみに音楽を続けている人をバッシングする気はさらさらない。俺だって音楽が好きだから。

ただ、音楽をつくることから離れて、新たなことに気づける、ないし俺のように、その方がよっぽど幸せに生きていける人は、周りを見渡すと、少なくないような気がしてならない。

「あなたはプロじゃないんだから、音楽以外のこともしっかりやりなさい。」これもその友人が高校の時、母に言われた言葉らしい。あの時でさえ、「確かに・・・」と思ったが、今はより強く、当たり前に響く。

「世間はお前等の母親ではない」(by利根川幸雄)。この間、ちびっ子が母親に連れられて歩いているときに転けて、うつ伏せ状態から「うわーん!」と喚きながら起き上がるその時、母親の顔を「チラッ」と覗き見た。

だが社会は自らの両親のように、個人個人の感情に一々向き合うものではない。

「これかっこいいんじゃね?」と思っていくら発表したって、人を楽しませることを考えず自らの美意識の尺度でできたものなど、他人にとってはすこぶるどうでもいいものにしかならない。そもそも、なぜだか「自分はカッコ良くなくてはならない」と無意識に思い込んでいた。その時は気づかなかったが・・・。

22:名無しさん@恐縮です: 2018/02/02(金) 12:09:35.10id:rTK+BvTgO.net
>>1
生まれたから生きている
それだけ


147:名無しさん@恐縮です: 2018/02/02(金) 12:20:55.39id:FHV7YfYO0.net
>>22
中学生なんかはそうは思えないもんなんだよな
特別な自分には特別な意味が有ると思ってる
だからそれが何なのか知りたがる
大人になると意味なんて無いと知るんもんだが、本田さんはまだのようだ

(出典:http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/4889063.html)

人は人によってつくられている。

誰しもが、自分のなかの正しさに沿って生きていて、しかもそれは生まれてから誰の影響もなしに唯独りで育まれたものでは決してなく、すべて外的な影響で形作られている。

だから人は、間違いと判断されることを犯し生きていくものだ。

沢山の外的要因によって。

誰が悪いとか悪くないなどといった低次元な話ではない。

 

しかし、決して許してもらえないこともあれば、また人を許さないこともある。

ただどうしても、人いつかは消え去ってしまう。

 

常時接続の時代、過剰な繋がりの中、いまを精一杯生きることを忘れてしまう。

いま、じゃなくてもよくなってしまう。

 

明日、大切な人たちがいなくなってしまうかもしれない。

そう考えれば、人はもっと命がけで、真摯にいまを生きられるのだろうか。

もっと許しあい生きていけるだろうか。

何がやさしさであるかに気づけるだろうか。

 

きっと俺も、誰かにとって許せない存在で、同時に、許せない人がいる。

 

もっと許しあい生きていけないのだろうか。

 

 

いま俺は、そういったことを、本気で向き合って考えなければいけないときが来てしまった。今まで以上に、一人の人間の責任として。

 

そしてそんなことを、もっと多くの人に、真剣に考えてもらいたい。

いつ、愛する人が目の前から、若しくは、ここから、消え去ってしまうかわからないから。

許しあって生きて欲しい。