争いの原因「同一視」、「こころとは何か、努力とは何か」

 

俺は本当に何でもない23歳の男子で、この記事を広く見てもらうためのコネクションを何も持ち合わせていないが、だからこそ主張したい、或いは主張するべきではないかと考えていることがある。著名で博学の人たちは、時に何を言っているのか、常人には理解し難い。常人が一つの物事を考えるにあたって平均ステップ3くらいまで考えるとして、頭のいい人はその遥か先のステップまで物事を考えているから、ステップ3止まりの常人に6とか7の話をしても「何かすごいけど難しいね」で終わってしまうし、何より識者たちは適切な言葉選びの末に到達した、よくわからない難しい言葉を好む。だから、場合によっては理解できないストレスでアンチが生じ、そんなノイズを避けるために識者たちは有益な知識をよりクローズドなコミュニティでしか語らなくなってしまうことになる。これは社会全体がより善く生きていくために好ましいとは言えない。

だから今から書きたいことは、有識の人々から見たら鼻くそ程度の話かも知れないが、それにしても、あまりにも世の中の人たちが ちゃんと 認識してない事実があると感じているので、何でもない者として、その想いを以下に記す。

 

この記事で最も伝えたいこと:

怒り、争いの原因は「同一視、多様性の無視」

 

何人も、産まれながら持つ能力は平等ではない。加えて、生きていく中で経験することも人それぞれだし、それぞれの経験によって感じることもまた多様である。これは誰が見ても明らかなことだ。電車の中で無秩序に奇声を上げる人を見て、我々はそれを「何らかの障害を持っているんだ」と認識することもできる。

なのに、我々は、予定通りに起床出来ない人を「怠惰な人」で済ましたり、いつも平均点以下しか取れない同級生を「バカ」呼ばわりしたりする。或いは、鬱で休養を取る若者を、「俺たちが若い時は・・・」なんて言ったりすることもしばしばだ。要は、「大体の人ができる事を出来ない者は、バカで怠慢である」と、多くの人が考えているのである。

実際、バカかも知れない。というより、そうした対象をバカとカテゴライズすることは人間にとって非常に容易な事である。今回取り上げたいのは、そうした人々をかんたんに「バカ」とカテゴライズするのはやめて、人間にはそれぞれ得意・不得意がある事をもっと深く認識すれば、他者に対する苛立ちは減少し、さらに深く議論する事によってお互いを理解して、争いを減らそう、そして平和に善く生きよう、という、いわば提案である。

 

・世の中に本当に怠惰な人なんていないし、本当に苦痛な事を自主的に継続することは出来ない

 

昨年末、旧帝の院を卒業し、某超有名企業へ研究職として就職した先輩と、5.6年ぶりに会うことになった。夜学を5年かけて卒業した(かもまだわからない)末に、肉体労働に従事している俺とは、社会的に見れば雲泥の差である。そもそもそのような方向を目指していないのも一つあるが、それにしても、彼のその功績は容易にできることではなく、称え、尊敬するべき対象である。

しかし俺にはわからなかった。なぜ、そこまで頑張れるのか。俺が超有名企業に就職することを望んでないにしろ、別のステージで同じだけ勤勉に努力したことは何もない。色んなことを経験し、思索しているにも関わらず、未だ自分が快く生きられる道へたどり着けていない。

俺はこのような努力の差がなぜ生じるのかを、彼との会話の中で明らかにしようと試みた。その仮説にまず、旧帝という環境に依る、母集団の能力の中央値がもたらしたものではないかという説を建てたが、これは的外れであった。彼の回答は、曰く「おこがましいと思われるかも知れないけど、自分ではそこまで努力したつもりはない」というものであった。加えて彼は俺のような人間に喝を入れることもなく、「自分の頑張れることで飯食って生活できれば、充分だと思う」と続けた。

彼は自身の経歴を、成功者にありがちな過剰な内的帰属をすることなく、冷静に自己と他者の違いを理解していた。よく考えてみたら確かにそうだ。俺だって、学費を稼ぐために週7で日夜働き続けていたこれまでを、絶望的な苦痛の中で猛烈に努力していたとは全く思わない。何人も、快不快は人それぞれであり、本当に苦痛な事を自主的に継続することは、到底、出来ないのである。そんな事を理解した人々は、これまで通り、他者を「バカ」とカテゴライズするのみで済ますだろうか?

 

 

・こころとは、「言語を認識する部分」と「言語によるコミュニケーションができないその他の部分」とに介在するものである

 

ある日、10年の付き合いになる友人「あべ君」と、共同で作業をしていた。その作業とは、何のデータもない新規のDAWに、一つづつ音を入れては交代し、曲を作ろうというものだった。あべはこの作業を、俺のターンとは比べものにならない速さでこなし、最終的にほぼ彼自身で曲を完成させていった。作業に滞りを見せる俺に、彼は「何に悩んでるのかわからない」と言った。

確かに何故だ。俺もあべも、「一緒に曲を作ろう」という意思やそれに向けた意気込みも同様にあるのに、何故俺には苦痛が伴うのか。勿論それには知識量やセンスも関係しているが、この出来事が「こころとは何であるのか」を考えるきっかけになった。

俺はこんな記事を書きながらも、何かと「根性論」で物事を捉え、9時出勤の癖に「明日、仕事だから」と早めに飲みを切り上げる友人たちを「飲めない理由を探すな、飲める理由を探せ」といった具合にエゴを押し付けていた。これはちょっとした冗談だが、それにしても、自分の気合いさえあれば、苦痛な事でさえも何でもできるとずっと誤認していたのである。

しかし実際はどうだ、俺はあべと一緒に曲を作りたいという意思は絶対にあるのに、DAWに向かって椅子にじっと座って作業することが苦痛で仕方がない。それが何でかもわからない。そう、わからないのである。なぜ俺の脳みそが苦痛で、あべが苦痛じゃない事を、頭の中だけで言語で理解することは出来ないのである。わからないことは、こわい。だから人は、「言語によるコミュニケーションが出来ない部分」のエラーを言葉で明らかにしようとして、故に「怠惰」などといった表現が生まれる。それこそが真実であると考えたことにより、「こころが弱い」とか、「メンタルが弱い」などという表現が産まれたのである。

 

・「こころ」は筋肉じゃない

 

ここまでを理解すれば、こころが一つの場所に留まっている物体ではないことが判るはずだ。だが実際の世の中では、「メンタルを鍛える」だとか、「あいつはこころが弱い」などといった表現はかなり使われている。或いは「意志が弱い」なんて表現もある。何人も、より善く生きていきたいのは当たり前だし、それに向けて努力したい気持ちはあるのに、それが出来る人と、そうでない人がいる。世の中の多くの人は、こころが何であるのかを理解していないから、出来ない人は できる人の「お前はこころが弱い」をかんたんに受け入れてしまう。だから、こころを鍛えようとする。しかしこころは筋肉じゃない。そもそも人が作り出した概念であり、物理的なものじゃない。筋肉はいじめればいじめるほど強くなれるが、こころはそういった稲みたいなものではないから、いじめればいじめるほど、こころは脆く壊れていってしまうのである。我々は能力という歩幅の違いを理解し、自分の頑張れるステージでより善く生きていくべきであり、その追求こそが「努力」である。

 

 

結論:「争いの原因、同一視」

 

最後に、繰り返しになるが、何人も、能力も経験も一致することない、それぞれオリジナルな存在である。

我々は、自分には理解できないアクションを他者が起こした際、苛立ちが生じ、時に人は争う。しかしこれは、多様性の無視に過ぎず、自分と他者を同一視することで生じる事象に過ぎない。人は、自分だけでは理解できない他者の意思・行動を、正しい言葉選びと冷静な議論によって、「自分にとってイレギュラー」な他者の言動を理解できる。これは罪人を「許す」事とは違う。許す事と、理解する事は、根本的に違うものなのだ。

 

少し話は変わるが、いま世界は大麻解放へ動き出し、様々な議論が行われている。

大麻使用は幸福追求という観点から見て、必要な人には必要なものであると俺は認識している。この議論に現れるアンチは、そうした「多様性」を未だ理解していないに過ぎない。それよりも問題なのは、こうしたアンチを無知だとかバカだと煽る支持者側である。何人も、経験も人それぞれで、感じることも人それぞれなのだ。幸福追求を求めているはずの支持者が、この事を理解せず、アンチを「バカ」とカテゴライズで済ます事は、それこそ支持者側が散々嘆いている思考停止に過ぎない。だから大麻議論以前に、俺たちは、何人もそれぞれオリジナルな存在である事を理解し、冷静な言葉選びと議論で他者を理解していくべきなのである。その先にこそ、醜い争いのない、今より少しでも平穏な世界が待っているはずだ。